飯山裕志が積み重ねた圧倒的努力。「万年2軍の選手」からファンに愛される選手へ【えのきどいちろうのファイターズチャンネル#61】
ファイターズ一筋20年、飯山裕志が今季限りでユニフォームを脱ぐ。入団当時、プロ野球選手としては物足りない印象を受けたが、今や大勢のファイターズファンに惜しまれる存在となった。
2017/10/08
プロで5年もたないと思っていた
オフィシャルの引退記念Tシャツではなく、持参した赤いTシャツに着替えたのだ。胸にスローイングしているシルエットと「ユウジ イイヤマ 57」の文字。バックプリントに「YUJI IIYAMA Nippon Ham fighters 2001.07.20 KONAMI FRESH ALL STAR in TOKYO DOME 57」。16年前、飯山裕志がフレッシュオールスターに初出場したとき、鎌ヶ谷のファンが作った私家版の応援Tシャツだ。市販されたものでなく、応援仲間が実費で作って当日着たものだ。僕も顔見知りからタダでもらった。あの頃、鎌ケ谷に根を生やしてた飯山裕志にグッズが作られるなんてあり得ないことだった。
それが2017年10月4日、札幌ドームに3万5千強のファンが詰めかけている。僕は通路の暗がりからスタンドに出た瞬間、じーんと来た。あの「万年2軍選手」はひたむきに野球を続け、こんなにも多くのファンに愛されるようになったのだ。ファイターズ一筋20年だ。僕は(そして赤いTシャツを作った鎌ケ谷の野球バカは)鹿児島のれいめい高から来たどんくさい高卒ルーキーを覚えている。正直、5年もたないと思った。
プロでモノになる選手は入ってきてすぐにわかる。他とぜんぜん違って見えるのだ。その時点での完成度は関係ない。そういう意味でいえば田中幸雄も金子誠も入団時はプロのレベルの高さに目を丸くしていた。が、田中幸雄はひと目で主軸を打つとわかったし、金子誠はチームの要になると思った。あれは何だろうな。単純な身体能力だけでもないのだ。雰囲気やたたずまいというとあいまい過ぎるか。
飯山にはそれがなかった。特徴がない。ふれ込みでは足が速いということだったが、特に速くはなかった。逆にいうと何もかも劣っていて目を引いたのだ。今は「守備の人」として定評があるが、最初は見られたもんじゃなかった。
入団して何年目だったろう。イースタンリーグの試合で飯山はエラーをするのだ。その頃の印象では「またか」という感じだ。2軍コーチ陣としては、とにかく守りからつくっていく方針だったが、まだヘタクソだった。試合終了後、飯山だけ特守になったのだ。あれはたぶんエラーのイメージが残ってる間にすぐ修正しておこうという意図だったと思う。相手チームの選手が外野でクーリングダウンするなか、飯山がノックを受けた。別に罰ノックじゃないから本数は10とか15とか、その程度だったはず。
ゴロをさばいて送球する。ゴロをさばいて送球する。ノックはその繰り返しだ。で、「オッケー、ラスト1本~!」と声がかって、飯山は奇矯な行動に出た。ゴロをさばいて暴投するのだ。それも球場フェンスを超え、場外へ投げ出してしまう。皆、呆気に取られた。「何やってる飯山!」 が、次のノックも受けて場外へ投げ出す。その次もわざと場外へ。もっとノックをくれというわけだ。もっと練習させてくれ。相手チームが笑っている。結局、場外への送球は10球以上あったと思う。そんな選手、後にも先にも飯山だけだ。鎌ケ谷で人気にならないわけがない。
僕はその頃、森本稀哲を見に鎌スタへ通っていた。ヒチョリは飯山の1学年下だ。ヒチョリだって決して器用な選手じゃなかったけど、身体能力が違う。それから斬り込み役としての意識がハンパなかった。飯山とは持ってるものが違うのだ。同年代の選手らが続々と1軍にコールアップされた。そしてはね返されて戻ってくる。飯山はずっと鎌ケ谷を守っていた。ウサギとカメじゃないけれど、コツコツ努力を重ねて。
2001年夏のフレッシュオールスター出場は、だから僕らも驚いたのだ。気がつくと守りの計算できる選手になっていた。バッティングも右打ちを覚え、しっかり叩ける打者になった。僕はケガをして鎌ケ谷に戻ったヒチョリが「あの飯山さん……」と驚いていたのを覚えている。毎日見てるより久々のほうが変化を実感するのだろう。いつの間にか飯山は2軍で上位を打っていた。
1軍の出場機会は05、06年シーズンあたりから増える。主に守備固め要員だ。バッティングで輝いたのは2010年8月20日西武戦の9回裏2死1、2塁から飛びだした奇跡の同点3ラン(20年の現役で、最初で最後の1本)と、2012年、巨人との日本シリーズ第4戦延長12回裏1死1、2塁で放った左中間のサヨナラ打だろう。どっちも僕はダダ泣きした。人生っていいことあるんだなぁと思った。