荒木大輔、ドラフト1位の肖像#1――高校1年、早実に背番号11のエースが誕生した理由
2017/10/24
自分は高校ではまだ無理だろうと思っていた。ところが…
早稲田実業野球部は荒木に向いていたといえる。まず強豪校の野球部によくある厳しい上下関係が存在しなかった
「常識的なレベルでやっていれば何も言われない。くだらないことはないです。ぼく自身、そういうのがあったら続かなかったと思いますよ」
高校生としての初登板は4月27日のことだった。静岡県の島田工業との練習試合に登板、8対1で勝利している。被安打4、自責点1だった。
「ぼくは高校に入ったばかり。高校3年生とは体力が違う。自分は高校ではまだ無理だろうと思っていた。ところが初めて先発したときに完投してしまった。なんか変な感じがしたことを覚えています。その後も何回か練習試合で投げさせてもらい、ほとんど打たれなかった」
7月、夏の甲子園の出場権をかけた東東京大会が始まる。大会前、合宿所でメンバーが発表された。背番号1番から順番に名前が呼び上げられるのが早稲田実業のならわしだった。1番は2年生の主戦投手、芳賀誠。そして2番、3番と進んでいった。15番まで来たときに、自分は落ちたのだと荒木は思った。試合では好投していたのに、と残念だった。
すると16番目に荒木の名前が呼ばれた。
「投手としては芳賀さん、津村(哲郎)さんの次の3番手。そしてサードの控えでもあった。まあ、先輩にくっついて行って、どっかで試合に出られればいいやって感じでした」
ところが――。
東東京大会開始の10日ほど前、芳賀が練習中に自打球を右脚ふくらはぎにぶつけて、怪我を負ったのだ。
「野球部は大パニックですよ。芳賀さんというのは本当に凄くて、東京都でもトップクラスのピッチャーだった。芳賀さんがいれば勝てるだろうという風にみんなが見ていた。人間的にも凄くいい人で、チーム芳賀みたいな形でまとまっていたんです。その人がいなくなるわけですから」
さらに2番手投手、3年生の津村は虫垂炎の手術を受けた直後だったという。そこで荒木が3回戦の京華戦に登板することになった。この試合を荒木は13対3で乗り切った。さらに準々決勝の岩倉戦を3対0、決勝では二松学舎を10対4で退けて甲子園出場を決めた。この全てを荒木が投げきっている。
「東東京都大会のときは、無我夢中で何もわかっていなかった」と振り返る。
甲子園のベンチ入りは15人に絞られる。背番号1番はやはり芳賀に渡され、荒木は11番となった。
荒木大輔(あらきだいすけ)
1964年5月6日、東京都出身。76年、調布リトルの投手としてリトルリーグ世界選手権に出場し優勝。その後早稲田実業へ進学、高校1年ながら、東東京大会では主力投手の故障が相次いだこともあり、先発1番手を任される。そのまま東東京大会を制して、夏の甲子園に出場。準決勝まで44回1/3無失点を飾り、チームを決勝へ導いた。横浜高に敗れて準優勝に終わったが、「大輔フィーバー」を巻き起こした。甲子園には春夏計5回に出場。82年のドラフト会議でヤクルトスワローズから1位指名を受けて入団。86年、87年には2年連続開幕投手を任されるなど順調にキャリアを積んだが、88年シーズン途中に肘を故障。アメリカで度々手術を受ける。92年に復帰、93年には8勝をマークし、2年連続のリーグ優勝と日本一に貢献した。95年オフに横浜ベイスターズに移籍し、96年現役引退。引退後は西武ライオンズや東京ヤクルトスワローズでコーチを務めた。現在は野球解説者・野球評論家として活躍している。
【書籍紹介】
『ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
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