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荒木大輔、ドラフト1位の肖像#2――大輔フィーバーの影響、「僕は早稲田大学に進学するつもりだった」

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

2017/10/25

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「僕は早稲田大学に進学するつもりだった」

 甲子園の後、全日本選抜チームによる日韓戦が終わると、荒木は一端、野球から距離を置いた。
 
「卒業試験と(早稲田大学への)推薦試験の両方があるんですよ。ぼくは教育学部の(教育学科)体育学専修に進むつもりでしたから」
 
 11月12日に推薦試験が終了するまで、荒木は家に籠もって勉強に集中した。その後、試験勉強から解放されると、同級生の家に泊まり歩くようになった。
 
「トレーニング? まったくしていないです。緊張が途切れていましたね」

 この間、プロ野球球団のスカウトはドラフト会議に向けて、野球部と両親に接触していた。
 
「全部ではなかったみたいですけど、ほぼ全球団来ていたみたいです。でも学校側からはそういう話は伝えられない。親のところにも来ていたかもしれない。でも親もぼくには言わなかった」
 
 そして荒木はドラフト会議の嵐のど真ん中に放り込まれることになる――。

 
 
荒木大輔(あらきだいすけ)
1964年5月6日、東京都出身。76年、調布リトルの投手としてリトルリーグ世界選手権に出場し優勝。その後早稲田実業へ進学、高校1年ながら、東東京大会では主力投手の故障が相次いだこともあり、先発1番手を任される。そのまま東東京大会を制して、夏の甲子園に出場。準決勝まで44回1/3無失点を飾り、チームを決勝へ導いた。横浜高に敗れて準優勝に終わったが、「大輔フィーバー」を巻き起こした。甲子園には春夏計5回に出場。82年のドラフト会議でヤクルトスワローズから1位指名を受けて入団。86年、87年には2年連続開幕投手を任されるなど順調にキャリアを積んだが、88年シーズン途中に肘を故障。アメリカで度々手術を受ける。92年に復帰、93年には8勝をマークし、2年連続のリーグ優勝と日本一に貢献した。95年オフに横浜ベイスターズに移籍し、96年現役引退。引退後は西武ライオンズや東京ヤクルトスワローズでコーチを務めた。現在は野球解説者・野球評論家として活躍している。
 

【書籍紹介】
ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円
 
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
 
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
 
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
 
 
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