選手が言いにくいことを球団に伝え、交渉するのが我々の仕事【事務局長・松原徹氏に聞く、日本プロ野球選手会の実態3】
2004年の球界再編問題の時に、日本のプロ野球選手会の存在を知った野球ファンの方は多くいるのではないだろうか。今回、ノンフィクションライターの田崎健太氏がプロ野球選手会事務局長の松原徹氏へ選手会、そして野球界の抱える様々な問題について取材を行った。3回目以降は選手会事務局の仕事内容や、2000年代に入り選手会のあり方が問われる諸問題へどのように対応していったのか。その実情に迫る。
2015/04/12
ベースボールチャンネル編集部
選手会のあり方を根本的に考え直すことになる、ある男の言葉
日本プロ野球選手会には二つの顔がある。一つは「社団法人」、もう一つが「労働組合」である。
1980年、選手会は「社団法人」として始まった。社団法人としての役割を松原はこう説明する。
「自分たちが野球に育てられた感謝を忘れてはならない。選手から会費をとって、子どもたちの野球教室、指導者のための講習会など野球普及に使う。そしてもう一つが現役引退後の手助け。退団金共済制度で、引退後、スムーズに次の人生を始められるようにお金を積み立てることにしたんです」
社団法人としての顔は親睦団体という色合いが濃い。そして、前回の連載で書いたように85年12月に選手会は労働組合として認められた。
「選手会として最初のほうは、〝社団〟のほうの活動の方が多かった。もちろん〝組合〟としての活動もやっていましたが、日本の経済がいい時代だったので、お願いしていれば叶えてくれるという部分があったんです。最低年俸を上げてください、移転費をください、年金を上げてください。ある意味、経営側とバチバチやらなくても、腹八分、九分までは球団側も要求を受け容れてくれた」
選手会の労働組合の初代会長は中畑清だった。そして原辰徳、岡田彰布、正田耕三とほぼ3年ごとに交代している。会長就任の祝儀として、選手会からの要求が通ることもあったと松原は振り返る。
そんな状況も2000年に変わる。
バブル経済が終わり、わずかに残っていた熱もすっかり消えていた。球団の親会社に余裕が失われていたのだ。
この年にヤクルト・スワローズの古田敦也が第5代目の会長となっている。
12月、古田の主導で、野球の将来を考えるという主旨のシンポジウムが開かれた。
そのとき、出席したある男の言葉に、松原は打ちのめされ、選手会のあり方を根本的に考え直さなくてはならないと思うようになる。
ロサンゼルス・ドジャースに移籍していた、野茂英雄である――。
「日本の選手会は何のためにあるんですか?」野茂英雄の一言が、選手会を変えた【事務局長・松原徹氏に聞く、日本プロ野球選手会の実態4】
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日本プロ野球選手会事務局長
松原徹(まつばら・とおる)
1957年5月、川崎市生まれ。1981年に神奈川大からロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)に球団職員として入団。一軍マネージャーなどを務めた後、1988年12月に選手会事務局へ。2000年4月から事務局長。2004年のプロ野球再編問題では、当時のプロ野球選手会の会長であった古田敦也らとともに日本野球機構側と交渉を行った。
【これまでの連載】
ぼくらは日本の選手会という組織について余りに知らなすぎる――【日本プロ野球選手会事務局長 松原徹回顧録1】 http://www.baseballchannel.jp/npb/3754/
86年オフ、ある男からの呼び出しが、松原氏の運命を変えた【日本プロ野球選手会事務局長 松原徹回顧録2】http://www.baseballchannel.jp/npb/4287/
第4回目は、4月○日に更新予定です。
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