「日本の選手会は何のためにあるんですか?」野茂英雄の一言が、選手会を変えた【事務局長・松原徹氏に聞く、日本プロ野球選手会の実態4】
2004年の球界再編問題の時に、日本のプロ野球選手会の存在を知った野球ファンの方は多くいるのではないだろうか。今回、ノンフィクションライターの田崎健太氏がプロ野球選手会事務局長の松原徹氏へ選手会、そして野球界の抱える様々な問題について取材を行った。3回目以降は選手会事務局の仕事内容や、2000年代に入り選手会のあり方が問われる諸問題へどのように対応していったのか。その実情に迫る。
2015/04/19
ベースボールチャンネル編集部
互いの思いは通じず
選手会の事務局長だった松原は当時をこう振り返る。
「当時の岡田選手会長としての考えは、フリーエージェントを導入することだった。だから、野茂とすれば1年でも早くアメリカに行きたいだろうけれど、FA制度をせっかく作った。その制度を獲得して正規にアメリカに行ってくれと」
93年シーズン終了後に成立したフリーエージェント制度は、ドラフト逆指名制度で入団した選手は累計10年、それ以外の選手は9年で取得することになっていた。野茂はこの期間を満たしていなかった。
野茂と岡田については、感情的なすれ違いもあったという。
「選手会として最後の説得を95年1月17日に大阪のホテルで行うつもりでした。選手会側から岡田会長と私、そして向こうは野茂さんと代理人の団野村さん。ところが、その日の朝、阪神・淡路大震災が起こり、最後の話し合いがなくなった。岡田会長は野茂さんが動くことによって、フリーエージェント制度自体が潰れてしまうことを危惧していた。みんなのために1年待ってほしい、ということをきちんと伝えられなかった」
会議の席上、野茂は突然「松原さん、ぼくは貴方に聞きたい」と名指した。
「日本の選手会は何のためにあるんですか?」
アメリカに渡る際、自分は日本の選手会から一切の手助けを受けなかった。一方、アメリカの選手会はまだメジャー契約を結んでいなかったにも関わらず、練習場の手配、球団の交渉の手助けなどをしてくれたという。
「それがアメリカの選手会です」
野茂の行動を批判していた選手もおり、選手会としては何も対応しなかったのは事実だった。松原は野茂の言葉に何も言えなかった。
松原はこの発言から選手会が変わったと考えている。
「その後、古田敦也、顧問弁護士と話をしたのは、選手を一人にしちゃいけないんだなということ。選手個々の問題に対しても、こちらから積極的に声を掛けよう、関わりを持とうという話となった」