石毛博史、ドラフト外の肖像#2 両親の薦める社会人野球を断って……ドラガイから巨人のストッパーへ
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/08/15
田崎健太
ドラフト会議当日に1本の電話
1988年11月24日、ホテルグランドパレスでドラフト会議が開かれた。
石毛は日本テレビ系の『ミユキ野球教室』という番組の密着取材を受けている。
「テレビカメラが教室に入って、授業を受けている様子とか全部撮ってました」
指名が入れば授業を受けている石毛に連絡が入ることになっていた。
ジャイアンツは津久見高校の川崎憲次郎を1位指名。川崎にはヤクルトスワローズも指名しており、抽選となった。スワローズが当たり籤を引き、ジャイアンツは〝外れ1位〟として北海道拓殖銀行の左腕、吉田修司を指名した。
続く2位で高知商業の右腕投手、岡幸俊を指名。しかし、スワローズ、広島東洋カープ、ロッテ・オリオンズ、ダイエー・ホークスと競合。くじ引きで、またもスワローズが交渉権を獲得した。〝外れ2位〟として大阪ガスの右腕、松谷竜二郎を指名した。3位に金足農業高校の投手、佐川潔を選んでいる。
ここからジャイアンツは指名を野手に代えた。
4位で三菱自動車川崎の四條稔、5位で三菱自動車水島の前田隆、最後の6位に札幌第一高校の高梨芳昌を指名した。この年のドラフト会議は6位まで。石毛の名前が呼ばれることはなかった。
指名されなかったことがわかったときは、教室でいたたまれない気持ちでしたか、と話を振ると石毛は「まあまあ、なんか」と口を濁した。
その日の夜のことだ。
「城之内さんから電話があって、6位までに掛けられなかったけど、ドラフト外ということで巨人に来ないかって」
石毛は即答せず「1週間ほど時間を頂けますか」と返事をした。
両親は住友金属への就職を薦めた。
「野球が終わってからでも生活が安定している住友金属に行って欲しい。父親は、俺の子なんだから、そこまで出来るとは思っていないと。社会人で3年間やって、それでももう一度ドラフトに掛けてくれるんだったら、行きなさい、みたいな感じでした。チャンスはもう一回あるよって」
しかし、石毛にとってプロ野球選手になることは子どもの頃からの夢だった。その夢に手が届くところまで来たのだ。3年後にドラフトで指名されるとは限らない。
「ドラフト外であっても好きな球団から指名が掛かった。できれば早くから環境の良いところで野球をやりたい」
電話で城之内に入団の意思を伝えると、スカウト部長を伴って銚子にやってきた。
「ドラフト3位の佐川とぼく、どっちを3位にするかということだったと説明を受けました。肘のこともあり3位には掛けられなかった。3位と同等の契約をしましょうと」