石毛博史、ドラフト外の肖像#2 両親の薦める社会人野球を断って……ドラガイから巨人のストッパーへ
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/08/15
田崎健太
リリーフとして才能開花、宮田コーチとの出会い
年が明けた89年、石毛は背番号「93」という大きな数字の背番号を背負って二軍キャンプに参加した。
ブルペンでプロの投手の投球を見たが、圧倒的な差を感じることはなかったという。
「感触的にはこの人たちには負けないと思いましたね。その自信は何なのかは分からないですけれどね」
しかし、1年目は二軍戦にさえ起用されなかった。
「それがチームの方針なんですね。1年目はバッティングピッチャーと(筋肉)トレーニング」
二軍のイースタンリーグの試合に帯同し、スコアブックを付けるのも大切な仕事だった。
「1年間やりましたね。いい球だけれど、ボール1個分、中に入った。それを待たれて打たれた、とか、そういう駆け引きを勉強していましたね」
ドラフト上位指名の選手のように一挙手一投足を追いかけられることもなく、石毛は幸福で充実した無名時代を過ごすことが出来たのだ。
プロ2年目、90年シーズンからイースタンリーグで先発起用されるようになった。
しかし、ここで石毛は右肘と向き合うことになる。
「1回から7回、8回まで全力で投げていました。そうすると、炎症が出て来る。痛みはないんですが、しっくりこない。思った通りの動きが出来ない」
しばらく休むと炎症は収まった。ただし、回復に時間が掛かるため、先発ローテーションを守ることは不可能だった。
そんな石毛に救いの手を差し伸べたのが、二軍のピッチングコーチだった宮田征典だった。
「宮田さんが〝お前、絶対にリリーフの方が向いているから〟つて」
不思議であるが、短いイニングであれば、毎日投げても肘に炎症が出なかった。
「リリーフの英才教育というか、抑えとはこういうものだということを宮田さんから教えて頂きました」
宮田は1939年に群馬県前橋市で生まれた。前橋高校から日本大学を経て、62年にジャイアンツに入った。監督の川上哲治により救援投手として起用され、ジャイアンツの九連覇時代の初期を支えた。〝8時半の男〟という渾名は広く知られることになった。現在のクローザー、セットアッパーの走りである。
宮田は「感情を出すな」と教えた。
「リーグ戦なので、結果に一喜一憂していると相手に見られる。弱い部分を見透かされる。だから鉄仮面のように、勝っても負けても同じ表情でマウンドから降りてこい。淡々と毎日投げることがリリーバーの仕事なんだって言われました」
89年シーズン終了後、救援を務めていた鹿取義隆と角三男が移籍したことも、宮田の頭にあっただろう。若く、連投の効く救援投手が必要とされていたのだ。