石毛博史、ドラフト外の肖像#3 突然のトレード&阪神テスト入団「野球馬鹿は、プロ野球で通じない」
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/08/16
田崎健太
フォークのように落ちたスライダー
石毛の才能が花開いたのは翌92年シーズンだった。52試合に登板、5勝3敗16セーブ、防御率1.32という好成績を残した。
石毛の150キロ前後の速球であっても、プロの打者はバットを合わせることが出来る。大切なのはタイミングをずらす、変化球である。石毛の場合はスライダーだった。ここで石毛の右肘が生きた。
「ベースのすごい前でワンバンしたりしていたので、フォークって言われたこともありましたけど、フォークは一切投げていない。スライダーです。肘が曲がっているので、(回転が)斜めに入って縦にスライドする。変化が縦になっているのでフォークだと間違えられたんです。解説でもみんな〝今のフォーク、すごいですね〟って言っていました。確かに普通はスライダーであんなにワンバンはしない」
石毛のスライダーは直球と全く同じ腕の振りである。球を待っていると振り遅れる。そのため、球が石毛の指先を離れる瞬間、打者はスイングに入る。途中で直球ではないと気がついても、スイングを止めることは出来ない。そのため、地面にバウンドするような球に空振りしてしまうのだ。
そして93年シーズン、長嶋茂雄が監督に就任。長嶋は「勝利の方程式」という言葉を使い、石毛をクローザーに固定した。
石毛は30セーブを挙げ、タイトルを獲得。初めてのオールスターゲームにも選出されている。
ただし、石毛は「セーブ王」というタイトルには拘りはなかったと明かす。
「自分はクローザー(抑え)ではなく、ストッパーでありたいと思っていました。ストッパーというのは、相手の勢いを止める役目。セーブがつかなくても、自分が出ていく。向こうも石毛が出てきたら駄目っていう風にしたい。そういうやりがいがあるのがストッパーだったのかなと」
90年代のジャイアンツはとてつもない人気があった。救援投手は味方のピンチの場面に出ていく。満員の東京ドームの観客を前にして、試合を壊してしまったらどうしょうかとひるむ、あるいは自分への対する期待に押しつぶされるような感覚はなかったのかと訊ねると、「全然考えていなかったです」と微笑んだ。
「(前の投手が)ランナーを残して交代するときってありますよね。ぼくが出ていって、そのランナーが帰ったとしても、それは前のピッチャーの責任、という感じでした」
もちろん、その当時はそんなことは言えませんよ、と手を振った。
「でもそのくらいの気持ちで行かないと。毎日なんで、持たないというか」
投手は負けず嫌いで、自分の数字に拘りを持つ。マウンド上では淡々と無表情を保っていたとしても、他球場で防御率を争っている投手が打たれたときには、グラブを叩いて喜ぶものだ。そんな中で石毛は異質の存在であった。
「世間的にはセーブを獲っていけば、セーブ王になれる。名誉ですよね。でも、ぼくの中では、欲しいものではあるけれど、別にそこまで、ではなかった。(セーブという)数字が給料に換算されることもなかったですし」
石毛はマウンド上と同じように淡々とした調子で言った。
そんなジャイアンツでの生活は突然、打ち切られることになる。