松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#2――アンダースロー誕生の瞬間、「僕はピッチャー嫌いだった」
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/10/09
上から投げるとノーコン
高校2年生の夏の茨城県大会で取手二高は準々決勝で敗れた。大会終了後、松沼は木内から呼ばれた。投手をやれ、というのだ。
「ぼくらの代はピッチャーが1人しかいなかったんですよ。ぼくはショートを守っていたぐらいだから、肩は弱くない。だからショートと掛け持ちでピッチャーをやれと」
県大会の前、松沼は1度だけ練習試合でマウンドに上がったことがある。そのときは1イニングを無難に抑えた。木内は3年生が抜けた後を考えて、松沼の投手としての適性を試していたのかもしれない。
投手は試合を支配する存在である。そこに抜擢されたことは嬉しかったのかと問うと、強く首を振った。
「だってピッチャー嫌いなんだもん。中学校のときからずっと思っていたんだけれど、ピッチャーの練習ってずっと走っているでしょ。俺、陸上部にいたけど、走るの嫌いだからね」
松沼の中では投手としての理想像があった。大きく振りかぶり、思い切り上から腕を振って速い球を投げるというものだ。
ところが――。
振りかぶって、腕を振るとストライクが入らないのだ。自分はコントロールに自信があったのに、おかしいと首を捻った。バッティングピッチャーをしていたときは、内野手のように小さな腕の振りで投げていたことに気がついた。
「上から駄目だから、下からしかないと思った。それで下から投げてみたら、これが割とスムーズだったんだ。ピッチャーを初めてもう何日目かのことだったと思う。だから(投手兼用となった後は)試合では一度も上から投げていないはずですよ」