松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#2――アンダースロー誕生の瞬間、「僕はピッチャー嫌いだった」
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/10/09
「ぼくは意外と器用だったから」
そのうちに地面すれすれの場所で腕を振って投げるようになった。
「どうせ(下手から)投げるなら、地面につくぐらいのところで投げたいという思いが出てきたんですね。地面につくくらいじゃないと満足度がないというか。それで地面に付けるぐらいのイメージで投げていたんですね。イメージとしては杉浦(忠)さん。杉浦さんはサイドスローだったけど、格好いいというイメージが頭に残っていたんでしょうね」
杉浦は1959年にはシーズン38勝という成績を残したこともある通算187勝の右腕投手である。
「真っ直ぐだけじゃ駄目だから、シュートを覚えた。シュートというか、回って落ちるシンカーみたいなボール。それと大して曲がらないカーブの3種類」
シュートは習得の難しい変化球とされている。
「ぼくは意外と器用だったから、覚えられた。あと、シュートって下から投げるとそれほど難しくないんですよ。すぐに曲げることはできた。後はコースに行くか行かないか」
ただし、自分の本分は遊撃手であるという意識があった。同級生の主戦投手の穴埋めが出来ればと考えていたのだ。