松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#4――松沼兄弟の運命を変えた男・江川卓
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/10/15
東洋大では1年からメンバー入り
高校卒業後の進路はすでに決めていた。兄のいた東洋大学である。東洋大学の監督、高橋昭雄が雅之の投球を何度か見に来ていたのだ。
「ぼくは野球に関しては自分の意思がない。兄貴の後について行っているだけ。レールに乗っかって行っているだけ」
75年4月、雅之は東洋大学に入学。3月に博久が東洋大学を卒業していたので、入れ違いとなる。
閉口したのは、厳しい寮生活だった。
「初めての寮生活。そして部員が80人もいることに戸惑いました。ずっと部員が十数人のところでやっていましたから」
寮は1年生から4年生まで各学年1人づつの4人部屋。部屋には二段ベッドが2つ。4人以上の部屋では、1年生は廊下に眠らされた。
1年生は起床時間前に目を覚まし、全員を起こさなければならない。
「下級生はゴミだとかホコリ、平民と呼ばれてましたね」
雅之に運があったのは、東洋大学が世代交代の谷間に入っていたことだった。
「それまでは兄貴と市村(則紀)さんの2人がほとんど全試合投げていたんです。ちょうとその2人が抜けたばかりだった。そこでぼくは1年生でメンバー入りしたんです」
2年生の秋季リーグ、東洋大学はリーグ初優勝を成し遂げる。雅之は8勝1敗という成績で〈最高殊勲選手〉〈最優秀投手〉〈ベストナイン〉の全部門に満票で選ばれた。
3年生の77年7月、雅之は〈日米大学野球選手権〉の日本代表に選出されている。
このときのメンバー表には、同級生の投手に明治大学の鹿取義隆、捕手に専修大学の中尾孝義、内野手に駒澤大学の石毛宏典、1年生の野手、東海大学の原辰徳の名前がある。
そして1学年上に法政大学の江川卓がいた。