松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#6 運も実力のうち――プロで生き残るために必要な資質
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/10/19
プロで生き残れる選手
広岡監督となった82年シーズン、ライオンズはパシフィック・リーグ優勝、さらに日本シリーズも制覇した。博久は10勝9敗という成績を残した。奪三振152はリーグ1位だった。ここからライオンズの黄金期が始まることになる。
博久は1990年に引退するまで通算112勝94敗という成績を残している。
ドラフト外で入った男が、生き残ったのはなぜですかと問うと「流れですよ」とはにかむ。
「根本さんからお前を使うと言われて入った。で、プロの壁にぶつかってもう駄目かなって思ったときに、広岡さんと出会った。広岡さんがぼくのフォームを変えてくれた。その出会いが大きかった」
現役引退後、博久は千葉ロッテマリーンズと古巣のライオンズで投手コーチを務めたことがある。そこでドラフト上位で指名されながら、伸び悩んだ若手投手を数多く見てきたことだろう。彼らと自分の差は何だったと思いますかと聞き方を変えてみた。
「気持ちがないんだろうね。ぼくなんか、万年気持ちが弱くて大変だったけど、マウンドに上がるとスイッチが入って前を向く。そういうことが出来ないと駄目なんでしょうね」
少し考えた後、こう付け加えた。
「ぼく、現役のとき、少しおかしかったぐらいでしたよ。(気が弱くて)人と口を利くのが嫌だったのに、いい立ち上がりが出来たら、怖い物がなくなってしまう。集中するとお客さんの姿なんか見えなくなっちゃう。プロって負けず嫌いの集まりでしょ。普段はともかくマウンドの上に立ったら、勝負の世界に没入するぐらいじゃないと負けちゃうんだ」
プロ野球選手は少々、変わり者じゃないと出来ないですよ、と微笑んだ。