松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#6 運も実力のうち――プロで生き残るために必要な資質
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
2018/10/19
このまま普通に投げていれば、毎年二桁は勝てるだろうと
一方、雅之の1年目は39試合に登板、4勝5敗3セーブという成績だった。
「1年を通して投げているんですけれど、無理が出来なかった。1日投げると、次の日には肩の痛みが出て投げられなかったんですよ」
雅之は2年目の80年シーズンに12勝7敗、翌81年シーズンで12勝8敗という好成績を残している。当初、ライオンズの練習が厳しくなかったこともあり、ゆっくりと体力をつけ、肩の痛みは自然治癒したという。
「2年目から少し厳しくなって、4年目に広岡さんになったんです。それから自主トレから厳しくなった。失礼な話ですが、根本さんは根本さんの良さはありましたけど、広岡さんになって、ようやく勝てる監督が来たって思いました」
そして82年に優勝。雅之は11勝8敗を挙げている。
翌83年シーズンは15勝8敗。ただし、同僚である東尾が18勝を挙げていたため、最多勝のタイトルは逃した。
「あの年は東尾さんの上に行けるかなと思ったこともありましたね。でも負けたくないというのはなかった。ローテーションがしっかりしているので、自分が何番目に投げるかというだけ。工藤(公康)とかナベ(渡辺久信)ちゃんが入って来て、これは強いなっていうチームになった。夏ぐらいまでに5割の成績だったら、優勝できるなと思っていました。このまま普通に投げていれば、毎年二桁は勝てるだろうと」