独立リーグで生まれた縁 日本ハム・大谷翔平を支える担当広報
華のプロ野球界。その中でも「二刀流」として常に話題の中心にいる日本ハム・大谷翔平。入団当初から注目される大谷を陰で支えている担当広報の青木走野は、彼自身も大谷と同じ舞台を目指した、元独立リーグ出身の選手であった。
2015/05/18
阿佐智
縁を感じる大谷兄との出会い
高校卒業後、そのままオーストラリアに残る道を選ばず、帰国した。大学に進んで野球を続けることも脳裏をかすめたが、高校時代のことを考えると、踏み出すこともできなかった。なすすべなく、アルバイト生活を送りながら地元クラブでプレーしたが、楽しむことにウェイトを置いたクラブチームでは「その先」が見えなかった。
「変な話なんですが、オーストラリアでプレーしているうちに、『プロ』っていうのが目標になってきたんですね。自分のやりたいことが見えてきたっていうか。だから、もっと上のレベルでプレーしたいっていう気持ちになりました」
貯金ができると、アメリカに渡った。実績のない青木にプロチームとの契約は舞い込んではこなかったが、プレーした本場のクラブチームのレベルは、日本のそれとは比べ物にならなかった。ここで2年プレーしたあと、青木は帰国し、NPB球団、独立リーグのトライアウトを受験する。このとき青木は、巨人のテストの最終メンバーまで残った。
「その中のひとりがドラフトにかかったんですよね。それで、俺だっていけるんじゃないかって気持ちになりました」
夢が手に届くところにきた瞬間だった。NPBとの契約はならなかったものの、四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスとの契約を勝ち取った青木は、独立リーグではあるものの、「プロ野球選手」としての一歩を歩むことになった。
ルーキーの月給は一律10万円。それでもこの球団は、全寮制で住居費はゼロ。出て行くのは光熱費と食費だけだったので、経済的に困ることはなかった。
「野球用品に関しては、年間でバット2本、スパイク2足が支給されました。だからバットなんかは折れちゃうと、あとは自腹でしたね」
寮は二人部屋、人懐こい青木はすぐに同室者と打ち解けた。
「まあ、同室になったんで、いろいろ話しますよね。それで、兄弟いるの、ってことになって。僕の兄(智史、広島-米マイナー-BCリーグ新潟)はプロでやっていたんで、そのことを話すと、むこうも弟さんの話をしだして」
その選手の名は大谷龍太といった。
「それで向こうが、今度、弟が花巻東(高校)に入ったんだ、って。そのときはふぅーんっていう感じでしたけどね」
この弟は、まだ高校入学を待つ中学生に過ぎなかった。このときの青木には、わずか3年後に球団スタッフとしてその少年のサポートをすることになるとは思いもつかなかった。
「はじめて会った時には、選手としてはとっくに追い抜かされていましたけどね」
青木は笑う。