独立リーグで生まれた縁 日本ハム・大谷翔平を支える担当広報
華のプロ野球界。その中でも「二刀流」として常に話題の中心にいる日本ハム・大谷翔平。入団当初から注目される大谷を陰で支えている担当広報の青木走野は、彼自身も大谷と同じ舞台を目指した、元独立リーグ出身の選手であった。
2015/05/18
阿佐智
夢見た舞台の裏方となる
結局、彼の「プロ生活」は2010年の1シーズンで幕を閉じた。43試合に出場して39打数4安打の.103、三振は実に10を数えた。シーズン終了後、待っていたのは戦力外通告だった。
「アメリカで3割打ってたんで、ある程度やれるとは思っていたんですが、レベルって言うより野球の違いに順応できなかったですね。身体能力では決して劣ってはいなかったですけど、それをフィールドで活かすことができなかったという感じです」
それでも他の独立リーグのトライアウトに挑戦した。しかし、合格を勝ち取ることはできず、練習生としてアイランドリーグに戻ることにした。まだ選手が集まっていない年明け早々に高知入りした青木は、開幕までの3カ月をけじめとして、それまでに選手契約を結ぶことはできなかったら引退する決意をした。しかし、思いは思いのまま、球団は、青木を戦力と見ることはなかった。
「やりたいことはあるのか」
この先どうしようと悩んでいた青木に球団副社長の北古味潤が声をかけた。
「農業、考えてみないか」
高知ファイティングドッグスは、収益改善の一環として、農業ビジネスに参入しようといていた。過疎化の進む地元の休閑地を耕し、できた産品を試合会場で売るなどして収入を得ようという新たな収益の道を模索していたのだ。
青木はこの話にのった。球団職員として、ちょうどチームが飼い始めた牛の世話を始めることになった。
「高知のみなさんには、ホント、よくしてもらいました」
どうしてもNPBの球団で、というわけでもなかったという。インターネットを見ていたときに、偶然目に飛び込んできたのが、ファイターズの球団職員募集の告知だった。2012年11月、青木は面接を受けるために上京した。
長い海外生活のおかげで堪能になった英語とその気さくな人柄が目に付いたのか、青木は見事採用されることになった。このとき日本ハム球団が新たにスタッフを募集することになった理由は、取材が殺到するであろう、ゴールデンルーキーの担当広報の必要性を感じたからだった。
高知球団に暇乞いをし、青木は初めて北海道の地を踏んだ。ここで、青木は初めて、元ルームメイトの弟に顔を合わせた。以前、話に聞いていたその少年は、すでにただの少年ではなくなっていた。
「翔平とは同じ日に契約したんですよ。待合室が同じだったんで、挨拶しました。向こうは親御さんと来てたんですけど」
新しいシーズンが始まって、目の当たりにしたプロの世界は、それまで身を置いてきた野球の場とは別世界だったという。とりわけ、自らが担当することになったゴールデンルーキーは、その中でも別格であった。球団職員として飛び込んだその場所で、青木は改めて自分が目指していたものの遠さを感じた。
「すごく距離を感じましたね。翔平なんか、自分たちなんかとはまるっきりモノが違いました。比べるだけ失礼ってやつですよ」
自らが叶えることのできなかった夢の舞台の真ん中に、今、自分が支えている大谷翔平が立っている。酷な質問かもしれないが、青木に自分がどうしてその舞台に立つことができなかったかを聞いてみた。
「やはり、絶対行くんだという強い気持ちが足りなかったと思います。それは独立リーガーの多くに共通していることでしょうね。今、自分がそこにいるのは、何かしら変えなければならないところがあるはずなのに、それを変える努力が足りなかった。実際ここに来て思ったことは、NPBの選手の練習量の多さでした。僕の想像をはるかに超えてましたね」
それでも、青木は、寄り道だらけの野球人生を悔いてはいない。
「これでよかったと思います。そのときどきで自分で選んだ道ですから」
今、彼は裏方として、自分が立つことのできなかった夢の舞台を支えている。
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