川相昌弘、ドラフト4位の肖像#1――「ぼくたちは長嶋さんの全盛時代というのは知らない。それでも長嶋ファンでした」
ドラフト四位指名―ドラヨンに結果を残している選手が多い。ドラフト一位指名は、その時点で同年代の野球少年の最前列にいると認められたことになる。その意味で、ドラヨンは、二列目以降の男たちとも言える。そんな“ドラヨン”で入団した野球選手を追った10/16発売の新刊「ドラヨン」から一部抜粋で先行公開する。
2019/10/11
田崎健太
「とにかく毎日何かを続けようと思った」
小学三年生のとき、父親が監督をしていたソフトボールチームに、四年生からは藤田スポーツ少年団というソフトボールチームにも入っている。近隣に軟式野球のチームがなかったのだ。
「ピッチャーかショートをやってましたね。ショートのときは、外野へ抜けたボールをぼくが捕りにいってました。外野手がもたもたしていたら、〝どけー〞って。肩が強かったので、ぼくが捕った方が早かったんです」
小学生のときは足も速かったし、何をやるにもすごく自信があったんですねと、柔和な表情で笑った。
「遊び場は沢山ありました。稲刈りした後の田んぼで野球をしたり、積み上げられた藁の上でバク転やバク宙をしたり。用水路でザリガニ捕まえたり、釣りしたり」
父親は〈手習いは坂に車を押す如き〉という言葉を川相と弟に言い聞かせた。これは〈学問や手習いは車を押して上り坂を進むようなもので、気を緩めるとすぐに後戻りしてしまう。そのため、絶えず努力しなければならない〉という意味である。川相にとって努力すべき対象は野球だった。川相は〈努力〉〈根性〉〈甲子園出場〉などの言葉を書いて壁に貼ることにした。
「小学校の高学年ぐらいのとき、とにかく毎日何かを続けようと思ったんです。最初にやったのが腕立て、腹筋、背筋。毎日少しずつやり続けました。一気に沢山やると疲れが残って、翌日に響いてしまう。だったら数を減らして毎日やる。例えば腕立て伏せ五〇回をやるところを、一○回、二○回でもいいから毎日やる。ほんのちょっとでもいいから続けることが大事だというのが親父の教えでした。一日休むと、それを取り返すのに三日、いや一週間とか掛かってしまう。少しでもいいから続けろって言われたんです」
毎日少しずつ努力する、そして決して休まない。これが川相の現役生活を貫く人生訓となる。
田崎健太 たざき・けんた
1968年3月13日、京都市生まれ。ノンフィクション作家。
早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』、『ドライチ』『ドラガイ』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)
『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。
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