川相昌弘、ドラフト4位の肖像#3――「おー荒木大輔かと思って見てましたね」
ドラフト四位指名―ドラヨンに結果を残している選手が多い。ドラフト一位指名は、その時点で同年代の野球少年の最前列にいると認められたことになる。その意味で、ドラヨンは、二列目以降の男たちとも言える。そんな“ドラヨン”で入団した野球選手を追った本日10/16発売の新刊「ドラヨン」から一部抜粋で公開する。
2019/10/16
田崎健太
あっという間に終わった初めての甲子園
一回戦の相手は栃木県代表の宇都宮学園だった。
岡山県からバス六三台に約四○○○人の応援団が駆けつけている。中でも川相の地元、藤田からはバス一一台を仕立て、五五〇人を超える人間が集まっていた。観客席には、オレンジ色と青色のチューリップハットで〝南〞の頭文字、「M」が描かれた。
マウンドで川相は甲子園独特の雰囲気を感じていた。
「ふわふわした感じはありましたね。緊張して何もできない、というほどではなかったです。でも自分のリズムでは投げられなかった。チーム全体が自分たちのペースでプレーできなかった」
翌日の『山陽新聞』の戦評はこう始まっている。
〈初陣の悲しさとでも言うのだろう。立ち上がりの岡山南はまるで地に足がついてなかった。塁上はにぎやかすのだが、詰めがない。(中略)敵は宇都宮学園でなく、甲子園のふん囲気だった、と言っても過言ではないだろう〉
三回裏、宇都宮学園は死球と川相のバント処理の失敗で一死一、二塁と先制の好機を作る。そして、次の打者、宮明浩への初球だった。
「ガツーンと三ラン(本塁打)を打たれた。確か、もう一点取られているんですよね。それはどんな風だったのかは忘れました。三ランを打たれたというのははっきり覚えていますね」
前出の戦評では川相の投げ急ぎを指摘している。
〈死球から本塁打までに川相が要した球数はわずか3球。ミスを自らの右腕で補おうとする闘志は買えるが、宮への初球はあまりに無造作。県大会のように、こういう場面でこそじっくり〝間〞をとるべきだった〉(一九八一年八月一二日)
〇対四の完封負けだった。
最初の甲子園はあっという間に終わったと川相は振り返る。
「チーム自体が本当に強くなったのは、その年の秋から。新チームになってからなんです」