セイバーメトリクスの視点で過去の打撃ベスト10を振り返ろう~1964年編~
2020/05/22
Getty Images, DELTA・道作
1964年のパ・リーグ
チーム 試合 勝率 得点 失点 得失点差
南海 150 .571 653 562 91
阪急 150 .549 590 547 43
東映 150 .534 555 530 25
東京 150 .531 535 512 23
西鉄 150 .438 549 617 -68
近鉄 150 .377 546 660 -114
この年は出塁率.384、長打率.556と満遍なく力を発揮し、欠場の少なかったダリル・スペンサー(阪急)がwRAA45.1でリーグをリードした。44.0を記録した2番手の張本勲(東映)は60年代から70年代前半まで、総合打撃指標で一貫してパ・リーグ首位の座を争った打者である。
私にとって最も意外だったのはwRAA43.6で3位に入った広瀬叔功(南海)である。広瀬は歴代通算2位の596盗塁を記録したスラッガーとは程遠いイメージの選手だ。この年は欠場が多く打席が少なかったためwRAAは3位に留まっているが、1打席当たり打撃貢献を示すwOBA(※3)では.413で首位になっている。この年、打席に迎えた時に最も恐ろしい打者はこの広瀬だったというわけだ。四球と長打に特性を持たないこのタイプにしては稀有のことである。広瀬はかなりの早打ちであったのだ。
4位以下にも常連選手が多く並んでいる。wRAA34.1で4位の野村克也(南海)は最多本塁打(41本)、5位の榎本喜八(東京)は最多四死球が上位ランクインの要因となっている。
トップ10以外で面白いと感じたのは近鉄のチャック・アシージアンである。スタッツは平凡に見える。素行に問題があり、ジョー・スタンカ(南海)と誰も止められないほどの乱闘を起こしたエピソードなどから、日本に馴染めなかった様子がうかがえる。
彼は1962年にはMLBのクリーブランド・インディアンスで、後に阪神で活躍するウィリー・カークランドと右翼・左翼を守っていた。1961年に173打数で打率.289、12本塁打、1962年に336打数で打率.274、21本塁打。打者の長打力を示すISO(長打率-打率)はそれぞれ.266、.223とMLBでもかなりの実績を残している。日本の球団の食指が思わず動くようなパワーヒッターである。比較的若い時点で来日したことを考えてもカークランド以上の活躍を期待して不思議はなく、近鉄の選択はおかしくなかった。
また1962年にMLBでこれだけの活躍を見せながら、1964年には日本でプレーすることになったというのは当時としては意外なことだ。1963年に一体何があったのだろうか。本人も想像していなかったような境遇で、それが素行の問題につながっていたとも考えられる。精神面のケアは現代と比ぶべくもない。このように当時の成績を眺めているだけで背景が見えてくる選手はいる。余談ではあるが、実像が不明でも、成績を眺めているだけでイップスの形跡を見て取れる選手すらほかには存在する。