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セイバーメトリクスの視点で過去の打撃ベスト10を振り返ろう ~1950年編~

2020/05/28

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Getty Images, DELTA・道作



1950年のパ・リーグ

チーム 試合 勝率 得点 失点 得失点差
毎日  120 .704 713 512  201
南海  120 .574 645 495  150
大映  120 .534 534 516  18
阪急  120 .458 522 541  -19
西鉄  120 .432 493 583  -90
東急  120 .425 524 660  -136
近鉄  120 .379 467 591  -124

 


 
 この年は前年に引き続き、NPBが良く飛ぶボールを使用したために長打の飛び交う超打撃優位のシーズンであった。その傾向はセ・リーグでより顕著であったが、パ・リーグにも影響が表れている。
 
 この打撃優位に加え、この年から日本プロ野球は1リーグ8チーム制から2リーグ合計15チーム制へと、ほぼ倍増に当たる大エクスパンションを行った。この結果、1リーグ時代であれば出場できるレベルになかった選手が大量に参入。ほかのシーズンとの色彩の相違は大きくなっている。

 1位はwRAA57.6を記録した別当薫(毎日)。wRAAだけでなく、1打席あたりの得点貢献を示すwOBA(※3)でも1位となっている。別当のほか、8位に入った土井垣武もエクスパンションに伴い、阪神から毎日へ移籍した選手だ。土井垣は強打の捕手として知られている。
 
 また、飯田徳治(南海)、飯島滋弥(大映)、大下弘(東急)といった1リーグ時代から活躍していた選手も順当に上位に顔を出している。ほかにもこの年に打棒が復活した呉昌征(毎日)や若きスピードスターの蔭山和夫(南海)など、顔ぶれも多彩である。
 
 トップ10以外で注目の選手としては南海の木塚忠助を取り上げたい。打撃については平均をやや超えるレベルと特筆するものはなかったが、当時の新記録である78盗塁を記録した上で失敗はわずかに8。後年の福本豊でも50盗塁以上を記録して失敗が1ケタだったシーズンはないので、その凄さが際立つ。この年の木塚は打撃で記録した5.3という得点生産よりも盗塁による得点生産の方が大きかったようだ。
 
 そしてこのシーズンには記録オタクにはおなじみの投手・塩瀬盛道(東急)の打席があった年でもある。1打席に立ったのみで1本塁打。そして2度と打席に入らずにこの年のオフにプロ野球から引退というパーフェクトレコードとなった。しかしこの時塩瀬はまだ19歳。現代の状況であればこのままプロを退くなど考えられない若さである。ところがこの時代の20歳程度の若者は、ほかに良い進路があれば簡単に舵を切ることがそれほど珍しいことではなかった。やはり現代とは異なる事情が垣間見える。GHQ肝いりの娯楽で、戦前に比べると社会的地位も格段に向上していたとはいえ、プロ野球が生涯の仕事になるとは確信しきれなかったのだろう。
 
 塩瀬は投手として救援直後のイニングでたまたま打順が回ってきてパーフェクトレコードを達成した。ちなみに塩瀬が救援したのは後に池田高校監督として一世を風靡する蔦文也(東急)である。

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