セイバーメトリクスの視点で過去の打撃ベスト10を振り返ろう ~1951年編~
2020/05/31
Getty Images, DELTA・道作
1951年のパシフィックリーグ
チーム 試合 勝率 得点 失点 得失点差
南海 104 .750 496 322 174
西鉄 105 .558 429 367 62
毎日 110 .514 482 463 19
大映 101 .441 376 422 -46
阪急 96 .420 367 404 -37
東急 102 .404 355 459 -104
近鉄 98 .398 319 387 -68
大下弘(東急)が記録的な猛打で圧倒的な傑出度を見せるシーズンとなった。wRAAは58.7。これだけを見るとトップの選手としてはありふれたものだが、この年の大下の出場試合数は89で、打席数はわずか371にとどまる中での記録なのだ。2位の別当薫(毎日)が108試合444打席と多くの打席を得る中で、大下の半分強にあたるwRAA33.5にとどまっていることからも大下の傑出度がわかる。
平均的な打者に対する1.66倍のwOBA(※3、※4)は1973年に王貞治(読売)が越えるまで最高の倍率であった。打席が少なかったため積み上げ式のwRAAでは不利になるが、1打席あたりの質を表すwOBAで見た場合NPB史でも最高レベルの記録と言える。
この年のパ・リーグは主力選手の新旧交代期が迫っていたのと、消化試合が少なかったことが影響してか、顔ぶれがかなり流動的になっている。ほかに注目したいのは大下、別当に次ぐ3位のwRAA31.6を記録した永利勇吉(西鉄)である。前年はセ・リーグの西日本に在籍した永利であるが、この年は所属チーム合併のために西鉄に籍を置くこととなった。前年のトップ10入りの大活躍に続きこの年はwRAAで3位、wOBAで2位とリーグを代表する打者であった。
しかし永利は順調にキャリアを伸ばすことができなかった。この1年後には見る影もなく調子を落とし、その後わずか3年で球界を去っている。リーグ分裂、チームの合併、トレードによる編成の激変など、環境の変化が悪い形で作用したのかもしれない。彼は当時では珍しい右投げ左打ちの選手で、かつ捕手もできる希少価値のある選手であった。謎の強打者といったところだろうか。もったいないという言葉が頭に浮かぶ。
前年に78盗塁のNPB新記録をつくった木塚忠助(南海)はこの年も55盗塁、失敗7で盗塁王に輝いている。ここまで3年連続の盗塁王(最終的に4年連続にまで伸びる)で、かつ3年連続の打率3割。そして面白いことに3割を打ちながら3年連続でwRAAベスト10から外れている。この時代にはすでに長打を打つ打者が一般的なものになったことの表れでもある。