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セイバーメトリクスの視点で過去の打撃ベスト10を振り返ろう ~1952年編~

2020/06/03

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Getty Images, DELTA・道作



1952年のパシフィックリーグ

チーム 試合 勝率 得点 失点 得失点差
南海  121 .633 594 420  174
毎日  120 .625 554 441  113
西鉄  120 .563 532 481  51
大映  121 .458 457 489  -32
阪急  108 .458 424 462  -38
東急  108 .454 453 509  -56
近鉄  108 .278 356 568  -212
 

 
 ランキングでは、飯島滋弥(大映)がwRAA43.0で6年ぶりにリーグトップに返り咲いた。打率.336で首位打者を獲得したほか、四球も多く獲得するスタイルは時代の先を行っており、出塁率.447は2番手の飯田徳治(南海)に5分の大差をつけている。

 上位の顔ぶれはあまり変わらないものの、この年のパ・リーグには興味深いスタッツが多く見られる。まず3位にランクインした深見安博(西鉄→東急)はこの年、史上唯一の2球団に所属した本塁打王となった。西鉄が大下弘(東急)獲得のため交換要員となった経緯があるが、はじき出された深見の方が本塁打王を獲得しているのは面白い。
 
 トップ10圏外で取り上げた甲斐友治(近鉄)はハワイ出身の選手である。前年の読売での与那嶺要らの成功もあり、ハワイから日系の選手を獲得する流行が生まれたようである。甲斐はこの年、その期待通りに.327と高打率をあげた。以降、読売に入団していたハワイ勢の向こうを張っていくかと思われたが、翌年はなぜか79試合の出場にとどまり、そのまま帰国してしまう。このあたりの事情も現代では確認できない。
 
 ほかにはこの年投手として規定投球回に達した五井孝蔵(近鉄)が打者としても125打席に立ち、打率.344をマークした。この頃はまだ投手・野手未分化の選手がいたが、そういった選手も減少しつつある時期である。五井は二刀流選手としてその時代の最後を締めくくるような活躍を見せた。ちなみに翌年の1953年、五井は投手としての登板がなく逆に規定打席の方をクリアしている。
 
 またこの年は、セントルイス・ブラウンズからレンタルで移籍していたジョン・ブリットン(阪急)が332打席と規定打席に達しながら9四球にとどまる怪記録をマークした。さらに翌1953年には、448打席に立ちながら驚愕の3四球にとどまった。これは歴代でも最も低いレベルの四球率で、のちの年度でもとりあげる鎌田実(阪神)の記録と双璧と言える。目立つ打撃記録を残して早期の米国球界復帰をもくろみ、焦るあまりに早打ちに出ていた、という話であれば面白いが、実はマイナー時代から相当な早打ちだったことがアメリカでのスタッツからもうかがえる。

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