ONの打撃は貯金32の価値 セイバーメトリクスの視点で過去の打撃ベスト10を振り返ろう ~1963年編~
2020/07/06
Getty Images, DELTA・道作
1963年のパ・リーグ
チーム 試合 勝率 得点 失点 得失点差
西鉄 150 .589 584 477 107
南海 150 .582 626 485 141
東映 150 .517 543 534 9
近鉄 150 .503 562 614 -52
大毎 150 .430 510 535 -25
阪急 150 .383 459 639 -180
1963年は野村克也(南海)が52本塁打をマーク。1950年に小鶴誠(松竹)がマークした国内最多の51本を13年ぶりに更新し、135打点で打点王も獲得した。この年の野村は60.7と生涯最高のwRAAを記録している。この結果、過去9年間、wRAAで6回、wOBA(※3)で7回リーグ首位を占めてきた2位山内一弘(大毎)・3位張本勲(東映)のコンビを凌駕。初の首位に輝いている。リーグ全体の本塁打はボールの質が変化したらしいことと、試合数が150試合に増えたこともあって1962年の518本から745本に増加。前年までの飛ばなさすぎるボールは野村のような長打を武器とする選手には不向きのものであったのかもしれない。
またリーグ全体で選手の能力が底上げされてきたらしく、この頃から、看板選手が活躍しても周囲の選手が振るわなければチーム総得点で上位チームに置いていかれる例が増えてきている。このことはセ・リーグにおけるこの年以前の読売にも該当する。ONを擁しながらほかのポジションの強化に手間取っていたがこの頃にようやく改善を見せ、傑出した総得点を得るようになっている。
4位に入ったブルーム(近鉄)は、打率.335を記録し、前年に続いて首位打者に、6位に入ったケント・ハドリ(南海)は30本塁打を放って野村とともに南海にリーグ最多得点をもたらした。西鉄は豊田泰光放出によって得た移籍金の一部で、トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウイルソンと3人の外国人野手を獲得。それぞれがwRAAランキングで、23位、13位、12位に入る活躍を見せた。投手陣では74試合で28勝を挙げた稲尾和久の力投もあって優勝を勝ち取っている。
外国人といえばこの頃はMLB経験の乏しい選手の中から適性ある者を選ぶのが通例で、上記5選手の中で直近5年以内にメジャー出場の経験があるのはバーマとハドリのみ。ブルームは一度もメジャーの試合に出ていない。しかし翌年、この潮流を覆す大物が阪急にやってくる。
この年優勝を果たした西鉄はwRAAでは誰ひとりベスト10に入っていない。これは史上初の出来事であった。リーグ上位の強力な打者はいないが、控え選手も含め全員で南海に大きく劣らぬ攻撃力をキープしたことが優勝につながった。ベスト10圏外選手として取り上げた中西太も、当時腱鞘炎を発症し常時の出場ができないコンディションの年が続いていたが、この年は故障後2度目のシーズン200打席オーバーを記録。優勝に貢献した。全員野球というのはこういうものを言いそうなものだが、このチームがそういう表現で呼ばれた例を知らない。