30代当時「野球に興味はなかった」【前日本ハム球団社長・藤井純一氏#1】
現在、日本のプロ野球界で実に効率的なチーム作りをしているのが北海道日本ハムファイターズである。東京から北海道へ移り、地域密着に成功した球団の土台を築いた一人が藤井純一前球団社長だ。これまでの藤井氏の話を聞くと、「負けない」ファイターズ、「集客力のある」ファイターズの土壌が見えてくる。
2015/08/18
ハムを卸す営業に没頭する日々
入社後は福知山営業所に配属された。
「ガレージの中に大きな冷蔵庫とトラックが五台。その上が事務所。一部上場企業の事務所じゃない、という感じでした」
任されたのは地元の販売店にハムなどの商品を卸す営業である。3キロのハム10本で30キロ。その塊を肩に担ぎ、時にもう塊をもう一つぶら下げて店に運ぶ。注文取り、商品運搬、代金回収、領収書発行――全て一人でこなさなければならなかった。
出張所に配属されたばかりの頃、藤井はある店での出来事をよく覚えている。
トラックに乗って近隣の街まで営業に出かけ駅前の商店街の精肉屋を入った。
「今日は何をお持ちしましょうか」
藤井が話しかけると、店主は大声で笑った。
「この兄ちゃん、何をお持ちしましょうかって言うてるで。お上品なことやなぁ」
当時の精肉業界、特に近畿地方では荒っぽい雰囲気があった。藤井は、店主のことは「社長」あるいは「おやっさん」と呼びかけないと溶け込めないことを知った。
藤井に営業の仕事は水に合っていた。当時、実家に帰ると母親から「毎回、言葉遣いが汚くなる」と嘆かれた。営業ノルマを達成することは苦にはならなかったという。
「当たり前のことですが、お客さんの欲しいものを持っていけば売れるじゃないですか。欲しくないものを持って行くと売れない。考えてみたら、そんな難しくはないんですよ。毎朝、7時に事務所に行き、プロ野球ニュースの再放送を見ながらご飯を食べていました。それから商品を持って営業に出かけて、夕方に戻ってくる。重い肉製品をいつも持つので、自然とすごい筋肉がつく。〝日本ハムウェイトリフティング部〟なんて呼ばれていました」
藤井は笑いながら肩の辺りをさすった。
その『プロ野球ニュース』に日本ハムの名前が出るようになったのは、藤井が入社2年目のことである。