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見習うべき先行モデルはドイツ――セレッソ大阪への出向【前日本ハム球団社長・藤井純一氏#2】

現在、日本のプロ野球界で実に効率的なチーム作りをしているのが北海道日本ハムファイターズである。東京から北海道へ移り、地域密着に成功した球団の土台を築いた一人が藤井純一前球団社長だ。これまでの藤井氏の話を聞くと、「負けない」ファイターズ、「集客力のある」ファイターズの土壌が見えてくる。

2015/08/19

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セレッソ大阪への出向

 57年創部のヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてカプコン、そして日本ハムが出資した、サッカークラブを立ち上げるという話が動き出したのだ。
 
 藤井はこう振り返る。
 
「東京では野球(日本ハムファイターズ)をやっているけど、本社では何もやっていなかった。大阪でアメリカンフットボールのクラブをやろうという話もあったんです。ただ、大社さんはサッカーが好きだったんで、ヤンマーから一緒にクラブをやりませんかという話が来た」
 
 大社さんとは現・北海道日本ハムオーナー代行の大社啓二のことだ。彼は日本ハム創業者の大社義規の甥にあたる。藤井は本社に戻ってから7才年下の大社と親しく付き合うようになっていた。
 
「それでセレッソの立ち上げ、会社になる前の準備室の段階から日本ハムの代表として行くようになった。ヤンマー、カプコンから来た人とチーム名をどうしますか、という段階」
 
 93年12月、ヤンマー、日本ハム、カプコンによる新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社」が発足。チーム名はセレッソ大阪となった。94年、セレッソは当時2部リーグに相当したJFLで優勝、翌年からJリーグに加盟した。

 翌96年、大社は日本ハムの社長に就任。宣伝室次長となっていた藤井はこの社長就任パーティを仕切ることになった。その席でセレッソへ出向しないかと打診された。
 
「どこでもいいですよって、答えた。野球もサッカーも我々一般サラリーマンにとっては(本社から)お金が出ていくだけという感覚ですよ。本業では、低い利益率で必死で稼いでいた。一方、野球では年間何十億も赤字を出して、それを補填しているわけですから」
 
 97年、藤井はセレッソ大阪の取締役事業部長に就任した。
 期待されたのは、赤字の削減だった。

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