元巨人・クロマティが率いた流浪のサムライ球団――「荒れ狂う指揮官、押し黙る選手」【『サムライ・ベアーズ』の戦い#1】
皆さんは、かつて巨人で活躍したクロマティ氏が、アメリカの独立リーグで日本人だけのチームの指揮官として戦っていたことをご存じだろうか。そのチームは『ジャパン・サムライ・ベアーズ』と名づけられた。
2017/01/18
阿佐智
2005年発足した独立リーグの指揮官に就任
クロマティが、現役引退から10年以上も経った2005年、監督として現場復帰したのは、この年に発足したゴールデン・ベースボール・リーグという独立リーグだった。「メジャーリーガーも参加」という触れ込みだったが、実際は彼らのメジャーでのキャリアは9月になってからベンチ枠が拡大される「セプテンバー・コールアップ」の時期にちょろっと出場の機会を与えられたという類のものがほとんどで、選手の大半は、マイナーでさえお払い箱になったベテランか、メジャーのスカウトに相手にされなかった若者だった。
その新興リーグで日本人チームを立ち上げようという話が持ち上がったのは、少しでも衆目を集めようというリーグ当局の切実な願いからだったことは想像に難くない。パイオニアである野茂英雄のメジャーデビューから10年、それまで霧の向こうにあったアメリカ野球の輪郭が日本のファンにも選手たちにもかたちとなって現れた頃だった。これを商売にしようとする日本人が出てきても不思議はない。そういう人間たちが仕掛人となって、国会議員を務めたこともある売れっ子野球解説者の江本孟紀を担ぎ上げ、前年の秋から冬にかけて日本国内で数度のトライアウトを行い選手をかき集めて、春になってようやく頭数をそろえた。
5月になってメジャーが去ったキャンプ施設でキャンプイン、10日ほどのそのキャンプでロースターを確定させ、3か月ほどのリーグ戦を行い9月頭には解散。そんな仕事をクロマティが引き受けたのは、野球への情熱というきれいごとだけで片づけられるものではないだろう。
離婚も経験した彼にはとにかく金が必要だったのかもしれない。でないと、真夏のアリゾナやカリフォルニアを埃まみれになってバスで転戦するわけが説明できない。そんな生活を彼はメジャーに定着した1977年以来していなかった。23歳の若者だったクロマティも当時52歳。安モーテルの硬いベッドが心地良かろうはずはない。
それに彼が率いたチームは、リーグのほかのどのチームよりも移動が多かった。トラベリング・チーム。本拠地を持たずにビジターゲームだけを消化するチームだった。それに、もうひとつ、彼のチームは決定的な点でほかのチームと違っていた。チームのメンバーのほぼ全員が日本人だったのだ。
クロマティは日本球界を去る際、『さらばサムライ野球』という1冊の本を出している。その中には、彼がいかに日本という社会に溶け込めなかったかが記されている。仕事である野球では日本にアジャストしたというが、それだけだった。日本という空気には決してなじむことはなかった。
そんな彼が、日本人の若者を率いてアメリカの大地で闘うことになった。
チームには、ジャパン・サムライ・ベアーズという名がつけられた。