大越基、ドラフト1位の肖像#1――「元木の金属バットをへし折る!」 人生を変えた高3夏の準V
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。(2017年6月2日配信分、再掲載)
2020/05/02
田崎健太
東北高校への憧れ
大越基は中学3年生の秋の日のことを今でもよく覚えている。
その日、彼は父親と共に仙台市内の東北高校野球部の練習を見学することになっていた。大越にとって東北高校の縦縞のユニフォームは小学生のときから憧れだった。東北高校で野球をしたいという大越のため、父親が学校に連絡をとってくれたのだ。
1971年5月、大越は宮城県宮城郡七ヶ浜町で産まれている。野球とふれ合った時期は早い。幼稚園児の頃、一人でコンクリートの壁めがけて軟式ボールを投げていた記憶があるという。小学3年生から、地元の少年野球チームに入っている。強肩を買われて、小学5年生からエースとなり、全国大会に出場している。
小学6年生のとき、父親の転勤により青森県八戸市に引っ越している。地元の八戸第二中学校の野球部に入ったが、それほど強いチームではなかった。中学3年生の最後の大会で八戸市内で準優勝となったのが最高の成績である。地元の高校の野球部から誘いはあったが、野球の盛んな宮城県の高校へ進学したいと大越は考えていた。
「東北地方って、当時は巨人戦しか放映がなかった。うちは親父がアンチジャイアンツだったので、ぼくも巨人が嫌いになってました。だからあまりプロ野球を見ていなかった。それよりもぼくは小学生のときから高校野球マニアだったんです。東北の高校を応援していて、特に宮城県生まれだったので縦縞の東北高校。あのユニフォームで1番をつけて甲子園に行くのが夢でした。校歌も空で歌うことができるぐらいでしたから」
ただ、両親は自分の息子が名門野球部で通用するとは考えていなかった。野球部の厳しい練習を見せれば、諦めるだろうと父親は考えていたのだ。
「憧れの東北高校のグラウンドに入ったときは感激しました。書類を出されて、名前、中学校とポジションを書いてくれと言われました。それで終わり。来たければ来れば、という感じでした」
わざわざ八戸市から連絡を入れて来たのだ。どのような選手なのか、得意な球は何なのか、色々と聞かれるだろうという心づもりをしていた。しかし、東北高校のような名門校の野球部では期待される選手ではないのだと冷や水を浴びせられたような気分だった。
「東北高校で色々と時間が掛かるだろうと計算して親父は帰りの新幹線を取っていたんです。すぐに終わってしまったので、むっちゃ時間があった」
父親は思いついたように「仙台育英に行ってみるか」と言った。
「仙台育英?」
その言葉を聞いて大越は思わず顔をしかめた。