大越基、ドラフト1位の肖像#1――「元木の金属バットをへし折る!」 人生を変えた高3夏の準V
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。(2017年6月2日配信分、再掲載)
2020/05/02
田崎健太
上宮へのリベンジで夢叶える
宮城県大会を1試合以外コールド勝利という圧倒的な力の差を見せ、仙台育英は夏の甲子園の出場権を手にした。
1989年の第71回全国高校野球選手権大会、仙台育英は1回戦で鹿児島商工、2回戦で京都西、3回戦では弘前工業を破った。そして準々決勝で再び上宮と対戦することになった。
「試合前、楽しみでもありましたし、弱気もありました。春の嫌な感じが躯には残っていましたし」
試合が始まり、マウンドに上がると不思議なぐらい、春に打たれた感覚は消えていたという。
「もう本当にぶった切ってやろうと。特に元木。彼は甲子園のアイドルで、キャーキャー言われていた。こっちは不細工な顔で芋臭いピッチングフォーム。元木の金属バットをへし折ってやろうという感じで投げてました」
大越は右腕を思いきり振って、勢いのいいストレートを投げ込み、上宮の打者をねじ伏せていく。元木には4打数1安打という成績だった。
「でも種田には5打数2安打。選抜から通算で10(打数)の5(安打)で打たれてます。嫌らしいバッターでしたね。投げるボール、投げるボール、バットに当ててくる。こいつ、いいセンスしているなぁ、と。元木、元木って言われているけど、センスは種田のほうがあるんじゃないかと思ってました」
試合は10対2で仙台育英が勝利した。その夜、大越は宿舎のトイレに入り、一人で勝利を噛みしめていたという。
「五人部屋だったから、みんなといると余韻に浸れないじゃないですか? 便器に腰掛けて、あー良かった、と」
仙台育英は尽誠学園戦でも勝利、初めて決勝に進出する。決勝では延長戦の末、帝京高校に敗れ、準優勝となった。
小学生の頃、大越は甲子園の特集号が出ると、貯めていた小遣いを使って買っていた。そして、その一字一句を記憶するほど眺めていた。自分もここに載るような選手になりたい。彼はその夢を叶えたのだ。
このときは、その反動で自分の心が空っぽになり、人生を大きく変えてしまうことなど、想像もしていなかった。
大越基(おおこし・もとい)
仙台育英高校3年時、エースとして春のセンバツに出場。同年、夏の甲子園では決勝戦で帝京高に敗れて準優勝。プロの誘いを断り早稲田大学へ進学するも中退、その後はアメリカで野球を続けた。92年ドラフト1位でダイエーホークスから1位指名を受けて入団。プロ入団後は投手としては結果が出ず、野手へ転向。99年には貴重な代走、守備要員として活躍。ダイエー初の日本一に貢献した。03年に現役引退。教員免許取得後に、07年に早鞆高校に保健体育の教員として着任。09年9月に野球部監督に就任。2012年春のセンバツで同校を甲子園出場に導く。
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