多田野数人、ドラフト1位の肖像#1――憧れだった六大学野球と、人生が激変した大学4年秋
かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。
2017/07/13
田崎健太
まず相撲で才能開花
多田野数人は中学生だった春の日のことを今でもよく覚えている。
その日、地元の中学校の野球部に入っていた多田野は、神宮球場の第二球場で行われていた高校野球の春季大会を観に来ていた。試合が終わり、神宮球場の前を通ると、かすかに歓声が聞こえた。こちらでも試合をやっているのだと、多田野は引き寄せられるように、切符を買って球場に入った。中では東京六大学の春季リーグの試合が行われていた。そのとき、多田野の心が強く揺さぶられたという。
多田野はこう振り返る。
「法政(大学)とどっかの試合をやっていました。で、中学生ながら、ここでやりたいと思ったんです」
それまで年に1回程度、後楽園球場、東京ドームで読売ジャイアンツの試合を観たことがあった。しかし、こんな風な感覚になったのは始めてだった。
多田野は1980年4月、東京の墨田区押上で生まれた。野球を始めたのは小学1年生のときだった。二つ上の兄が入っていた少年野球チームに入ったのだ。ポジションは投手と遊撃手だった。
「チームが弱かったので早くから試合に出ていました。あんまり記憶はないんですけれど、ストライクは入ったので投げさせてもらっていたんじゃないですか」
目立つ選手ではなく、野球が好きで好きで仕方がないという、どこにでもいる野球少年でしたよ、と静かな声で付け加えた。
彼の才能を最初に認められたのは野球ではなかった。
「墨田区って相撲部屋があるので、相撲が盛んなんです。それで4年生のときに野球をやりながら相撲の大会に出たら、たまたま墨田区の大会で勝ってしまった。それで都大会に出るというので、大島部屋で稽古をつけてもらうことになった。相撲好きでもなんでもなかったんですけれど。5年生、6年生も(区の大会で)勝っちゃって夏前は、大島部屋に通っていました」
この頃、大島部屋にモンゴル人力士が入門している。その中の一人が旭天鵬がいたという。彼らと共にちゃんこ鍋を食べるのは楽しかったという。
中学校に進学する際、相撲と野球の選択を強いられた。彼は迷うことなく野球を選んでいる。
しかし、中学校の野球部は、恵まれた環境とは言えなかった。多田野と同じ学年の野球部員は誰もいなかったのだ。
「中学3年生になるとピッチャーで自動的にキャプテンでした。仲間がいないことは寂しかったというか、こういうもんかなと思っていました」
神宮球場で六大学野球を見たのはそんな時期だった。高校進学が近づき、多田野は六大学の附属高校を受験した。
しかし、全て不合格――。千葉県の八千代松陰高校に進むことになった。中学の先輩がいるという理由で入学試験を受けただけだった。
「第4、第5志望の学校でしたし、正直行きたくなかった。でもそこしか受かりませんでした。甲子園は考えていなかったです。夏は一度も出たことありませんでしたから。野球を続けるというだけでしたね」