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元木大介、ドラフト1位の肖像#1――野球人生を決めた、父との約束

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

2017/10/06

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甲子園に元木あり

 上宮は大阪市天王寺区上之宮町にある1890年創立の私立学校である。野球部は1980年の春の選抜に初出場。このときは1回戦負けしている。翌年の同じ春の選抜でベスト4。83年、86年の春にも甲子園に出場している。
 
 元木にとって初めての甲子園は高校1年夏のことだった。
 試合前、甲子園練習で脚を踏み入れたとき、元木は思わず声を出しそうになった。
 
「うわーっ、甲子園だって。観客がいなくてがらがらなんだけど、迫ってくる感じがあった。圧倒された気持ちは未だに忘れない」
 
 元木は小学生のとき、阪神タイガースの試合を観るために甲子園に行ったことがあった。マイク・ラインバック、ハル・ブリーデンという外国人選手がホームランを打たないかと外野席のレフトポールの近くでグローブを持って待ち構えていた。しかし、ホームランボールは飛んでくることなく、残念な思いで家に帰った。そこに自分が立っていることが感慨深かった。
 
 高校2年の春の選抜、初戦の相手は徳島県代表の小松島西だった。
 元木は甲子園の雰囲気を楽しむ余裕があった。
 
「大阪って地元だから、お客さんが一杯入ってくれる。俺、ここで打ったら格好いいなって思うと鳥肌が立ってきた」
 
 上宮は小松島西を5対0、その後、高知商業を7対3で破り、準々決勝で栃木県の宇都宮学園と対戦した。
 
 4回、元木は宇都宮学園の右腕、影山崇から先制本塁打を打った。
 元木によると、これは高校生で初めての本塁打だったという。
 
「練習試合、予選含めて、1本も打ったことはない。紅白戦でも打ったことがないもん。飛ばせるって思ったことない。上宮でも種田(仁)も飛ぶし、他にも飛ぶ奴はいたから」
 
 上宮は元木の本塁打を含めて5回までに5点を先行した。しかし、その後追いつかれ、延長12回、7対8で敗れた。
 
 元木の名が広く知られるようになったのは、翌年の春の甲子園だった。
 
 初戦は千葉県の市立柏だった。2年生投手の宮田正直が7回まで無安打に抑え、打線も元木の2打席連続本塁打など8対3で勝利した。2打席連続本塁打は史上5人目だった。続く福井県の北陸戦では宮田が3対0で完封。準々決勝では宮城県の仙台育英の大越基を打ち崩し5対2。横浜商業との準決勝では9対0と圧勝し、決勝に進出した。
 
 決勝の相手は愛知県の東邦だった。前年の準優勝校である。
 
 試合は上宮の宮田、そして東邦の山田喜久夫の両投手の投げ合いで、9回を終了して1対1。9年ぶりに決勝戦は延長に入った。
 
 先に優勝を手元に引き寄せたのは上宮だった。10回表、二死一塁から四番元木、五番岡田浩一の安打で2対1とした。しかし10回裏、東邦は二死走者なしから、四球、内野安打で一、二塁。続くバッターがセンター前に打ち返し、同点。
 
 さらに――。
 
 打った選手は、ボールが捕手に戻ってきたのを見て、二塁を狙った。しかし、二塁にいた走者は塁に停まったままだった。そこで捕手が三塁にボールを投げた。三塁手はランナーを刺すために二塁手に送球。ところがこのボールがそれて、右翼側に転がっていった。さらにカバーに入っていた右翼手の前でバウンドが変わり、ボールがフェンスまで転がっていく――。その間に走者が本塁まで駆け抜けた。サヨナラ負けだった。
 
 試合終了のサイレンが鳴った瞬間、元木はその場で泣き崩れた。
 
 上宮はこの年、夏の甲子園にも出場し、準決勝まで進んでいる。そして個人としては甲子園通算本塁打6本という記録を残した。これは桑田真澄と並ぶ、歴代2位の記録だった。
 
元木大介、ドラフト1位の肖像#2――巨人逆指名批判、ホークス入団拒否の理由
 
 
元木大介(もとき・だいすけ)
 
1971年12月30日、大阪府出身。中学時代からすでに注目を集め、上宮高では春2回、夏1回甲子園に出場。89年の夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど、一躍人気者として、旋風を巻き起こす。高校通算24本塁打。同年のドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するも願いかなわず、福岡ダイエーホークスから野茂英雄の外れ1位で指名された。結局これを断り、1年間ハワイに野球留学する。1990年のドラフト会議でジャイアンツより1位指名を受けて入団。2年目から1軍で出場。高校時代はスラッガーとして名をはせたが、プロではつなぎ役、内外野守れるユーティリティープレイヤーとして存在感を発揮、勝負強い打撃には定評があった。現役生活では度重なる故障に悩まされ、05年オフに引退。その後はプロ野球解説者や評論家、タレントとして活躍している。
 

【書籍紹介】
ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円 2017年10月5日発売
 
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
 
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
 
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
 
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